県会以前
明治4年(1871年)の廃藩置県により、現在の茨城県域には十余りの県が誕生しました。その後これらの県は統廃合をくりかえし、明治8年5月、茨城県と新治県、千葉県の一部が統合されて、現在の茨城県が誕生しました。
廃藩置県によって力を強めた新政府は、学制、徴兵制、地租改正などの諸政策を矢継ぎ早に実行しました。これらの政策は国民の大きな負担となったため、茨城県でも明治9年には、真壁・那珂両郡において地租改正などに反対する大規模な一揆が発生しています。
そのような中、明治5年ごろから各府県では、戸長、副戸長などを議員とする「民会」を設けて民意を吸収し、行政を円滑に進めようとしました。政府も民会を公的な機関とするための法的整備をはかりました。そして、明治11年7月に府県会規則が制定され、全国に「府県会」が創設されることが決められました。
はじめての県会
明治12年3月、茨城県でも府県会規則にもとづいて、はじめて県会議員の選挙が行われ、45名の県会議員が選出されました。4月5日には、水戸の茨城師範学校で第1回の県会が開かれました。
県会議員になるには、25歳以上の男子で地租10円以上をおさめていること等が条件とされました。また選挙に参加できる人も、20歳以上の男子で地租5円以上おさめていること等のきびしい制限がありました。
このころになると、自由民権運動が茨城県でも活発となり、各地に政治結社(政社)が組織されました。政社のリーダーのたちは、県会に登場して活躍する一方、国会開設を求める運動を展開しました。
しかし、発足間もない県会では、各議員の出身地域の利害対立が目立ったものとなりました。とりわけ、県北出身の議員(山岳党)と県西出身の議員(河川党)の対立ははげしく、たびたび県会が紛糾する場面もありました。
また、当時は知事(県令)の権限がきわめて大きく、たとえば知事の提案した予算案が県会で否決されても、知事は政府の指令により、否決された予算案を執行できるほどでした。
明治23年には府県会規則にかわって府県制が公布され、茨城県では明治29年に施行されました。このころから県会の諸制度も整備され、県会議員の発言力は次第に強くなっていきました。